amnesia1


ある冬の日の朝。
ふと目が覚めて、眠い目を擦りながらも、ゆっくりとベッドの上に起き上がる。
「さむ……」
起き上がった途端に感じるひんやりとした空気に、思わず毛布を引き寄せた。
隣を見ると、レンはまだ眠っているみたいだ。
レンが寝てるということは、まだ早い時間なのかな?
そう思って時計を見ると、短い針は十を少し過ぎた所を刺していて、思わず首を傾げてしまった。
レンはいつも八時くらいには起きているくらい、早起きだ。
私も一応、目覚ましはかけているんだけど、起きられた例がない。
一応努力はしているんだけど、どうしても朝は苦手だ。
それを見かねたレンが、いつも起こしてくれるんだけど。
だから、こんな時間まで寝ているレンを見るのは、初めてだった。
珍しいなぁと思いながらも、ひとまずレンを起こそうと、身体を揺すり始めた。
「レーン、朝だよ?」
「ん……」
声をかけると、レンがゆっくりと目を開けた。
「おはよ。もう十時すぎだよ?」
声をかけると、ぼんやりとした様子のレンと目が合った。
「…………」
「…………」
すぐにおはようって返してくれると思っていたのに、レンは黙ったまま。
寝惚けているにしたって、なんだか様子が変だった。
「レン――?」
いつもと違うレンに不安になって声をかける。
だって、私が知っているレンとは何処か違ったから。
でも、次の瞬間聞こえた言葉に、思わず耳を疑った。
「えっと……ごめん、だれ?」
「え――?」
レンが私のことわからないなんて。
知らない人を見るような目で私を見るなんてこと、ないと思っていたから。
目を覚ましたらレンがいて、おはようって言ったら笑って返してくれる。
それが当たり前だった。それが日常だったから。
まさかそれが崩れる日がくるなんて、夢にも思わなかったんだ――。


「マスター!」
「ん……?」
リビングに駆け込むと、そこには、のんびりとコーヒーを飲みながら新聞を読んでいるマスターがいた。
「どうした、リン?」
新聞を横に置いて、マスターがこっちを見て微笑む。
それを見た瞬間、思わずヘナヘナと床にへたりこんでしまった。
いつも通りのマスターを見て、なんだか気が抜けたみたいだ。
「マスター、どうしよ……」
「ん、どした?」
知らない人を見るような目で見てくるレンにどう返せばいいかわからなくて、思わず逃げてきてしまった。
だって、あんなレンは知らない。
あんな目をするレンを見て、どうすれば良いかわからなかった。
「レンが……、」
「レンって俺のこと?」
「ひゃ!?」
後ろから聞こえてきた声に驚いて振り返る。
「れ、レン……」
そこには、さっき部屋に置いてきた筈のレンが立っていた。
私の後を付いてきたんだろうけど、全然気付かなかった。
「あ、やっぱ俺のことか」
レンは私の反応を見て、なんだか勝手に納得しているみたいだ。
いつもとそんなに変わらないのに、それでもやっぱり何処か違って。
「で、あんたたちは?」
私とマスターのほうを見てそう言うレンが、なんだか怖かった。


ひとまずリビングのソファに座って話そうと言ったのはマスターだった。
私の隣にマスターが、向かいにはレンが座っている。
「レンは、どこまでわかるんだ?」
「なんにも。わかるのは、俺がボーカロイドってことぐらいかな」
話をしてみると、レンは本当になにも覚えていなかった。
自分のことも、マスターのことも、私のことも、全部忘れてしまっていた。
残っているのは、ボーカロイドとしての基礎知識だけ。
「名前もわからないってことは、初期化された訳じゃないな」
「まぁ、一応“鏡音レン”のことは、知識としてはあるんだけどな」
「でもそれが、自分の名前だっていう認識はないんだろう?」
そう問われて、レンは頷いた。
「理由はわからないけど、何かのキッカケで記憶データが抜けてしまった可能性が高いな。人間でいう、記憶喪失ってやつだな」
「記憶、喪失……」
レンが初期化されていないのだとわかって、少しホッとした。
もし初期化されていたのだとしたら、自分の名前がわからないなんてことはない筈だから。
それでも、レンの記憶がないことには変わりがない。
今も私やマスターのことを、知らない人を見るような目で見ていて。
ずっとこのままなのかもしれないと思ったら、不安で仕様がなかった。
「とりあえず原因もわからないことだし、様子を見るしかないな」
気付くと話は終えていて、マスターはフゥと息を吐いた。
マスターは何も覚えてないレンに、改めてと名前を告げる。
「ほら、リンも」
そう言われて、思わず唇をギュッと結ぶ。
レンに自己紹介する日が来るなんて、思ってもみなかったな。
「鏡音リン、です」
気を抜くと泣きそうで。上手く笑えてるかわからないけど、それでも精一杯微笑んだ。



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