amnesia2


深夜。どうしても眠れなくてリビングに来ると、マスターがホットミルクを入れてくれた。
マグカップを差し出されて受け取ると、マスターはコーヒーの入ったカップを持って、向かいのソファに座る。
一口飲むと、ほんのり甘くて、なんだかホッとする味がした。
「ね、マスター」
「ん?」
マスターはコーヒーを啜りながら、こっちに視線を向ける。
私はマグカップから視線を上げられなくて、下を向いて目を伏せたままだ。
「レンの記憶、戻るのかな?」
「さぁ、どうかな……。戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。原因がわからないからなんとも言えないけど」
戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。
その言葉を噛みしめるように、マグカップを持つ手にギュッと力をこめる。
明日になったら記憶が戻っているかもしれないし、このままずっと戻らない可能性だってある。
なんの前触れもなくレンの記憶はなくなったから、どうなるかもわからないんだ。
「マスターは、戻ってほしい?」
「そうだね、戻ってほしいけど……」
「けど?」
「どっちでもいい、かな」
考えるように止まった言葉の続きが気になって先を促すと、マスターはそう答えた。
「……どうして?」
「だって、レンはレンだ。今までの記憶がないんだったら、また新しく作ればいいんだよ」
マスターはそう言って微笑んだ。
いまいちイメージが湧かなくて、思わず首を傾げる。
新しく作るって、何を作ればいいんだろう。
「記憶を?」
「思い出を。あ、違うかな。関係を、か」
マスターはカップを置くと、静かに立ち上がる。
「一度積み上げたものがゼロに戻ったのなら、イチからまた積み上げればいいんだ。
前と全く同じにはならないかもしれないけど、それでも、前よりも高く積み上げられるかもしれないだろ?」
言い聞かせるように話しながら、マスターは隣にそっと座って、ポンポンと頭を撫でてくれた。
「うん、そうだね……」
レンが思い出せないのなら、また新しく作ればいい。
前のレンとは違うかもしれないけど、それでも今の状態よりは、全然良い筈だから――。
ずっと頭を撫でてくれるマスターの手が暖かくて、泣きそうになるのを堪えながらも、胸の痛みを無視するのに必死だった。


レンは、記憶がないことなんてあんまり気にしてないのかもしれない。
ボーカロイドは歌うためのモノだから、記憶がなくても大丈夫だって思っているのかもしれない。
そう思ってしまう程に、レンはいつも通りだった。
記憶がないとは思えないくらいに、いつもと変わらなかった。
口調も、笑い方も、ちょっとした仕草も、今までとそんなに変わらない。
でも、私を見るレンの目だけが、いつもと違った。
今のレンにとって、私はボーカロイドの“鏡音レン”の片割れである“鏡音リン”だから。
ただ、それだけの存在だから――。

ねぇ、レンは知ってる?
“鏡音リン”と“鏡音レン”は、それぞれのマスターによって、その関係も全然違うんだよ。
双子の姉弟だったり、その逆だったり。それから、鏡の中の自分や、恋人同士。
私とレンはどんな関係だと思っているのかな。
レンはそれも忘れてしまったんでしょう?
だって、私を見る目が今までと全然違う。
記憶がなくてもレンはレン。マスターにも言われたことだし、私だってわかってる。
でもね、レンにそんな目で見られると、やっぱり苦しいよ。
胸が痛くて、苦しくて、泣きたくなるんだ。
ねぇ、今までのレンは何処へ行ってしまったのかな――?



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